伝書について
日本の武道の伝書にはそれぞれの流派に伝えられた技や稽古法について書かれたものと、心と身体の使い方についての一般的なことが書かれたものとあります。
合気道はいわゆる古流武術ではありませんので古から伝わる秘伝の書のようなものは基本的にはありません。しかし、日本の伝統的訓練法を実践する合気道で目指す心と身体の使い方については古くから武道の伝書において流派を超えて繰り返し伝えられてきています。
ここでは心と身体の使い方について述べられている、いわゆる武道の名著と言われるような伝書について紹介します。
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1. 太阿記
太阿記 :沢庵宗彭
原文:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1764781/124
武術叢書 P.222〜(国立国会図書館デジタルコレクション)
あるいは武道宝鑑
江戸時代初期、沢庵和尚から柳生宗矩に与えられた書と言われている。
冒頭の「蓋兵法者、不争勝負不拘強弱、不出一歩不退一歩、敵不見我我不見敵、徹天地未分陰陽不到處、直須得功」は「本当の自分とは何か」という問題でもありますが、武道を研究する人間は必ず理解する必要があるポイントです。
最初の部分は漢文なのですが、その後に一文ずつについて比較的平易な解説文が付くという形で構成されていますので読みやすいと思います。
たとえば、敵不見我我不見敵(敵我を見ず、我敵を見ず)についてはこのように解説されています。
「敵不見我我不見敵とは、我は眞我の我也、人我の我にあらず、人我の我は人よく是を知る、眞我の我は人の知ることまれなり、故に敵不見我と云なり
我不見敵とは、我人我の我を見ことなきゆへに、敵人我の我の兵法を見ず、不見敵といえばとて、目前の敵を見ぬにあらず、見て見ぬ處是妙也
眞我の我とは、天地未分以外父母未生已然の我なり、(後略)」
本当の自分(眞我の我)は人から見られることはほとんどない、だから敵は自分を見ることができない。
自分は敵の眞我の我を見る、だから敵の人我の我を見ることはない、だから自分は敵を見ない。
そうは言っても目の前の敵を見ないわけではない、見ているけれどもそれに囚われないということ。目の前に敵はいても、自分の心の中には敵はいない、ということでもあるかと思います。
本当の自分というのは産まれる前からある、自分という存在の根源です。沢庵禅師は臨済宗のお坊さんですのでこれが仏性であると説明しています。天地未分陰陽不到の所ですので、宇宙のはじまりまで遡ったところにある自分、宇宙と一体になっている自分とでも言いましょうか。
2. 不動智神妙録
不動智神妙録 :沢庵宗彭
原文:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1764781/118
武術叢書 P.210〜(国立国会図書館デジタルコレクション)
あるいは武道宝鑑
太阿記と同じく、沢庵和尚から柳生宗矩に与えられた書と言われている。
不動智とは何か。どのような心の置き方をすれば、とらわれない心になるのかについて剣の世界にいる宗矩に沢庵和尚が禅の立場から説いています。
「物に心をとどむれば物に心をとられ候、毎物止まる心を動くと申候、物を一目見て留も心を留ぬを動かぬと申候、(中略)留まればうごき候、とまらぬ心は動かぬにて候」
逆説的に聞こえるかも知れませんが、留まらない心が不動の心になります。
また「応無所住而生其心」という言葉が出てきます。
おうむしょじゅうにしょうごしん、と読みますが、書き下すと、「応(まさ)に住(じゅう)する所無くして其の心を生ず」となります。
これはもともと『金剛般若経』の中の言葉です。
「〜しようと思わないで〜する」何かをする時にそれを意識しないでやれてしまう。仏教的には人を救う際の心の状態なのでしょうが、武道においても自分の所作が意識しないでできることは重要な意味を持ちます。
これも心の使い方としてしみじみ味わってください。
3. 常静子剣談
常静子剣談:松浦静山
著者:松浦静山
武術叢書 P. 386 〜 (国立国会図書館デジタルコレクション)
原文:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1764781/206
この常静子剣談で良く引用される言葉には「勝に不思議の勝あり、負に不思議の負なし」というのがあります。プロ野球の野村克也元監督が使うことでこの言葉を聞いたことがある方もいるかもしれません。今回はこれとは別の部分「練習と本番を取り違えないように」ということを書いているところを紹介したいと思います。
「世の諺に、樂屋に聲を枯すと謂ふこと宜なる言なり、(中略)平常は行之場ゆえ舞臺也、樂屋は調(ならし)を合はする場處ゆへ、如何やうにもことを改替へらるゝ也、舞臺に出でては取返しはならぬ也、茲(ここ)を能く察ふべし、劔技も如斯にて、けいこ場は裡(うち)なり、平常は表向なり、夫をけいこ場にてさへ見事なれば事済むと心得居るは、畢竟愚なる故也、劔技もけいこ場は樂屋にして平常は舞臺なることを能く辨ふべし、如前言舞臺にては仕直しは成らぬ也、けいこ場にては如何やうにも習行はせらるゝ也、とかく劔生の念入は樂屋舞臺を取違ふる也」
楽屋で声を枯らすというのは楽屋でがんばって本番の舞台では声が出なくなってしまうというようなことを言った諺ですが、武道の稽古でこれを考えるとどうでしょうか。
どこが楽屋で、何が本番の舞台でしょうか?
道場ではピシッとしてて稽古をがんばって、日常生活ではだらけてしまう、道場でやることが武道の本番だと思っているとこんな風になってしまいがちです。
実際の武道の本番は日常生活、社会生活です。稽古をする道場は楽屋、日常が舞台です。
楽屋である道場では失敗してもやり直せますし、先生や先輩も教えてくれます。
しかし、本番の舞台である日常では失敗はやり直せません。
熱心に武道の稽古をする人ほどこれを勘違いしてしまいがちなので気をつけなければなりません。
合気道は試合を行いません。 これは日本の伝統的な武道・武術の共通する特徴でもあります。
試合に重きを置いてしまうと楽屋と本番の舞台とを逆転させてしまうことになってしまうということもあるのだと思います。
現代に活きる武道である合気道は日常生活に活かされて初めて本当のものになります。
4. 遠羅天釜
遠羅天釜:白隠禅師
原文:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822888
遠羅天釜 : 白隠禅師参禅要訣(国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸時代に禅の修行を体系化したと言われる白隠禅師が著した「遠羅天釜(おらてがま)」は3つの手紙から構成されています。
このうち最初の「答鍋島摂州殿下近侍書」(鍋島摂州守殿下の近侍に答える書)を見て行きます。これは肥前蓮池藩の第4代藩主鍋島直恒に宛てた手紙とされています。身分の高い人に対しての手紙なので直接ではなく、お付きの者、近侍に答えるという形になっています。我々の業界でもたまに宛先の下に「御侍史」とついてくる郵便物がありますが同じ意味ですね。残念ながら私にはお付きの者とかはいませんが…。
さて、この中で白隠は禅修行の一般的な心得と内観による養生法について述べています(この内観法についての詳細はまた別の著書「夜船閑話」を紹介するときに書きたいと思います)。その上で白隠は禅修行における静中の工夫と動中の工夫について述べています。
静中の工夫とはこの場合はいわゆる坐禅のことで、動中の工夫というのは掃除や食事の準備などいろいろな雑務、つまりは禅修行における坐禅以外の全ての生活のことといってもいいかもしれません。
禅修行では静動どちらの工夫も大事なのですけど、ついつい禅の修行者は坐禅ばかり熱心にやって悟り得たような気になってしまう。そんな話をしています。
「往々に静中の工夫は思いの外に捗行く様に思はれ、動中の工夫は一向に捗行かぬ様に覚えらるゝ事に侍れど、静中の人は必ず動中には入る事得ず。」
坐禅は思いの外に捗るように思え、動中の工夫は捗らないように思える。しかし坐禅だけでは日常の中で坐禅のようになることができない。
「偶々動境塵務の中に入る時は、平生の会処得力は迹と形もなく打失し、一点の気力無うして、」
(世俗的な仕事の中では、せっかく坐禅で得た悟りは跡形無く消えてしまって、ちょっとした気力もなくなってしまい、)
「結句尋常一向に心がけ此れ無き人よりは劣りて、芥子計りの事にも動転して、思いの外に臆病なる心地ありて卑怯の働きも間々多き者に侍り。」
(結局は世間一般の何も修行なんてしてない人にも劣って、ちいさなことにも動転して、思いの外に臆病になって卑怯な行動をしてしまう人もまあまあいるのです。)
「然らば則ち何を指してか得力と云わんや。」
(それじゃ一体何が悟りだったというのかと…。)
「去る程に大慧禅師も動中の工夫は、静中に勝る事と百千億倍すと申し置かれ侍り。」
(そう、大慧禅師も動中の工夫は静中の工夫に勝ること百千億倍と申しておられます。)
静かな中での禅修行だけで悟りを得たとしても騒がしい雑務の中に入ったらせっかくの悟りは消え失せてしまうことが多々あるということです。いくら集中力があるといっても完全に静かな中でしか集中できないのであればなかなか日々の生活でその集中力を発揮させることは難しいですよね。日常生活の中でも工夫をして禅的に過ごせばそれはとても良い修行になるし、社会に出て能力を発揮させることにも繋がるでしょう。
合気道は「動く禅」と呼ばれることがあります。稽古ではお互いに技を掛け合うのですが、対立せず同化的に、受動的ではなく能動的に場を主宰するようにこころと身体を使うことで瞑想的な稽古となります。そのような稽古でこころと身体の使い方に習熟すれば日常生活、社会生活でも自分の能力を発揮することができるようになります。
また、合気道でも道場の中でだけ集中できるというのでは意味がありません。こころと身体の使い方に習熟し、それを日常生活の中でも活かせてこそ現代社会で合気道の稽古を行う意味があると考えています。
白隠禅師の「遠羅天釜」から「答鍋島摂州殿下近侍書」でした。
番外編 「武道」1.
「武道」:植芝盛平(植芝守高名義)
ちょっと伝書とは異なりますが、番外編と言うことで合気道開祖植芝盛平翁先生が昭和13年に植芝守高名義で著された「武道」について解説したいと思います。
そもそもこれは一般に出版された書籍ではなく、翁先生が個人指導を行っていた皇族の方(賀陽宮恒憲王)が希望されたために個人的に作られた冊子です。昭和13年頃に完成し、数名の弟子にも手渡されたようですが個人的にごく限定的に作られた冊子です。なので全ての合気道修行者に向けて「これを参考に稽古するとよい」というようなものではないと言うことをまずは理解しておいて下さい。現道主のもと、植芝家には何冊か原本が保管されているとされますが、現在に至るまで公には出版されていません。開祖が積極的に配布しなかったことも含めて考えると、この冊子の出版が一般の修行者に資するところがあまりないと判断されたのではないかと私は考えます。個人的に教えたことの備忘録として渡したものは渡された当人にとっては教えられたことの再現に有用でしょうが、そうでない人にとっては本来稽古で受けとるべき情報を狭めてしまうことになってしまいます。たとえ教える人が同じであっても学ぶべき内容は修行の階梯によって異なりますし、同じ技でも修行すべき内容が異なることがあります。教える人も修行者であれば解釈が進んで異なる教え方になる事もあるでしょうし、教える人が異なれば教え方はさらに変わるでしょう。
そんな時に開祖による教科書のようなものがあればどうなってしまうか、師から受け取るべき情報を教科書を基準に取捨選択あるいは解釈し直すというようなことが起きてしまいます。これは師の教えを相対化することになり、武道を学ぶ上で絶対にやってはいけないことです。結果的に自分に都合の良い情報だけを取り出して稽古することになりますので上達するのは難しくなります。
この「武道」に限らず、合気道の技術書は教科書や聖典のようなものだと思って捉えてしまうと修行の妨げになります。
武道の書物は習った人が何となく忘れないためにまとめるとか、めったに先生に付いて稽古ができないとか、そういう人が参考にするものであり、それを読んで上達するようなものではありません。せいぜい備忘録的に見る程度に留めなければならないと思います。実際のところ「武道」が出版されていない理由は分かりませんが、出版されても多くの合気道修行者のプラスにはならないのではないかなと思います。
そんな「武道」ですので、一般にも公開されず、手渡された人も他人に見せるようなものではないので存在を忘れられていたのですが、昭和56年に合気ニュースの創立編集長であったスタンレー・プラニン氏が戦前の内弟子で岩間在住だった赤澤善三郎先生のインタビューをしているおりに「発見」されることになります。その後、どのような経緯があったかは分かりませんが、平成3年に John Stevens 氏による英訳版 Budo, Theachings of the Founder of Aikido が出版されました。Introduction by Kisshomaru Ueshiba として植芝吉祥丸前道主が序文を書いているとされていますが、収録されているのは The Life of Morihei Ueshiba で開祖植芝盛平翁先生の生涯についての文章となっています。この文章では「武道」の冊子については全く触れられていません。謎です。
「武道」の構成ですが、 道文、道歌の後に目次があって技法眞髄、そして技法圖解竝解説、
最後に武道奥義(歌)として道歌が掲載されています。
道文は次の一文からはじまります。
「武道ハ神ノ立テタル神ノ道ニシテ眞善美ナル無限絶對ノ全大世界御創造御經綸ノ精神ノ道也ト思考ス」
英語版では、
"Budo is a divine path established by the gods that leads to truth, goodness, and beauty; it is a spiritual path reflecting the unlimited, absolute nature of the universe and the ultimate grand design of creation."
と訳されています。
標準的な日本の大学生なら英語版の方が分かりやすいかも知れませんね。
英語の方を翻訳すると
「武道とは、神々が定めた真・善・美に通じる神の道であり、宇宙の無限絶対性と創造の究極のグランドデザインを反映した精神的な道である。」
といったところでしょうか。
原文最後の「ト思考ス」が抜けていますが、このように考える、心の中で断定する、ということだと思います。
そして、
「稽古ノ德に依リテ天地ノ理ヲ見ルベシ。夫レ技ハ水火ノ眞妙ヲ出シ天地ノ道又皇道精神ヲ…」
このような感じで開祖植芝盛平翁先生の武道哲学が述べられていきます。
非常に味わい深く、合気道修行者は良く読み込むべきではあります。しかし、ここで紹介してもなかなか伝わらないと思いますので今回はここで詠まれている歌の中から大学で合気道を研究する我々のためにあるような歌を一首紹介して終わります。
「古より文武の道は両輪と 稽古の徳に身魂悟りぬ」
"From ancient times
deep learning and budo have been
the two wheels of the Path;
through the virtue of practice
enlighten both body and soul."
書かれている技法についてはまた次回以降に紹介します。